5月4日、ラトビアは独立回復の日を記念し、その歴史において極めて重要な日として祝います。この日は、ラトビア国民が自由と主権を求めて粘り強く戦い抜いた歴史を再認識する機会となります。この日が思い起こさせるのは、1990年5月4日のラトビア共和国の独立回復宣言採択という重要な出来事です。
この宣言は単なる象徴的な行為ではなく、ラトビア国家の不屈の精神を証明する法的な証でした。宣言では1918年に公布されたラトビアの憲法の正当性が再確認され、1940年のソビエトによる占領は不法であると非難されました。国際的に承認されたこの宣言は、1991年のラトビアの独立回復において重要な役割を果たしました。
1990年の独立への歩みは、国内そして世界各地のラトビア人が力を合わせた結果でした。ラトビアの市民は、市民運動に積極的に関わり、デモや集会を組織し、民主的な改革を強く求めました。ラトビア人民戦線などの組織が独立運動の重要な支柱となりました。
一方、第二次世界大戦後、世界各地に離散した亡命ラトビア人は、祖国の再建に向けて重要な政治的、道徳的支援を行いました。国際的な働きかけや外交努力を通じて、彼らはラトビアの独立運動を力強く後押ししました。5月4日は、世界中のラトビア人にとって特別な意味を持ち、世界に広がるディアスポラの人々の心に深く響く日なのです。
大切にされている伝統の中には、団結と尊厳を象徴する「White Table Celebration(白いテーブルクロスの日)」があります。家族、友人、隣人が白いテーブルクロスを囲み、食事や思い出を共有し、絆を深めます。この伝統は、ラトビアの人々が純粋な心で協力し合い独立を勝ち取った歴史を物語り、国民の不屈の精神と団結を力強く示しています。
5月4日の歴史的な瞬間を巡る人々の感情を捉えるため、MissionLatviaチームはラトビア5月4日宣言クラブの会長であるVelta Čebotarenoka(ヴェルタ・チェボタレノカ)氏にお話を伺いました。ユールマラにあるヴェルタ氏の自宅で、晴れた土曜日の夕べに座談会を開き、彼女から実に啓発的な洞察を得ました。
ヴェルタ・チェボタレノカ氏は当時、宣言に賛成票を投じた最高評議会の138名のメンバーの1人でした。彼女はラトビアの独立と民主主義を積極的に支持しています。現在、ラトビア5月4日宣言クラブの会長を務める彼女は、1990年の出来事の記憶を喜んで共有し、5月4日宣言の採択が歴史的にいかに重要であったかを説明してくれました。
MissionLatvia — 当時の状況と社会の雰囲気についてお聞かせいただけますか?
ヴェルタ・チェボタレノカ — ラトビアにおけるソビエト占領はほぼ50年間続き、1980年代初頭にはソビエトの指導者が次々と亡くなり、さらに高齢の指導者が後を継ぐこともよくありました。この国には深刻な問題があると感じ始める人々がどんどん増えていきました。誰もがすでに、ソビエト連邦は自分たちが住みたい国ではないと考えていました。特に、バルト三国の人々の両親や祖父母の中には、ラトビアがかつて自由で独立した国だった記憶があったからです。この記憶が、ソビエト占領から解放されたいという願望を強めました。
この感情は、私や家族、親しい友人だけの感情ではなく、ラトビア全体、そしてリトアニアやエストニア、他のソ連占領下にあった国々にも広く浸透していました。残念ながら、ウクライナなどの国々では占領期間が70年間続いたためそういった歴史的な記憶ははるか過去のものであり、そのため国家の独立回復について考えることがおそらくそれほど鮮明ではなく、確実性の低いものになっていました。
ML — ラトビア社会は結束していましたか?
VČ — ラトビアの独立回復について間違いなく結束していました!最初はヘルシンキで独立運動が始まりました。次に国民独立運動「ヘルシンキ86」とラトビア国民独立運動が起こりました。少数の人々しか集まらなかった個人の運動もありました。人々がこれらの運動にできるだけ多く参加することが私たちにとっては非常に重要でした。1988年にはラトビア人民戦線が誕生しましたが、この運動は非常に大規模なものでした。明確な目標を持ち、攻撃性がなく、目標達成の方法が明確で、プログラムがあり、知識人、芸術家、詩人、作家、科学者、医師、教師、弁護士、経済学者などが参加していたためです。傍観者の中には、ソビエトの様々な機関に勤めていた人もいました。彼らが傍観したのは、独立運動に参加すれば職を失う可能性があったためであり、その事情も理解できます。例えば、私たちのようなジャーナリストは皆、同じ考えでした。そして、こういった活動は必ず実行する必要があることを理解していました。ユールマラは概して興味深い都市で、外国人が60%、住民が40%を占めていました。しかし、約6万〜7万人の住民に対し、ラトビア人民戦線は1000人以上が参加するラトビアで最も大きな組織の一つで、ラトビア人の割合は比較的少なかったことを強調しておきます。ロシア人も他の国籍の人々もおり、彼らにも、私たちは同じ目標に向かっている、ラトビアの独立回復に向かっていると明確に伝えました。私たちと共に行動し戦うかどうかは彼らが選ぶことでした。
ML — 反対活動はありましたか?
VČ — 反対派の存在は、もちろん非常に大きく深刻でした。なぜならインターフロント(ソ連の維持とラトビアの独立回復に反対するラトビアの組織)があり、それはソ連軍の様々な階級の兵士、ソ連工場の管理者、エンジニアなどで構成されていたためです。そして恐ろしいことに、ソ連軍に勤務していた者は45歳で退役して除隊することができ、それによりソ連軍の勤務を離れ、ソ連国内の好きな場所で暮らす権利がありました。そして非常に多くの人々が残念ながらラトビア、リガ、リエパーヤ、その他のラトビアの都市を選びましたが、多くはリガとユールマラでした。このようにして社会が形成されました。新参者と一部の地元住民の両方が、自分たちの快適さが変わるかもしれない、ロシア語優勢がもう続かないかもしれない、ここで起こるすべてのことを自分たちで決められなくなるかもしれない、そして占領の時代が終わるかもしれないことを恐れて、気づき始めました。そのとき、ソビエト軍が形成されていました。国家保安委員会と党委員会が共同組織であるインターフロントを組織し、残念ながら最高評議会もそこから人々が選出されました。私たちは最高評議会のすべての議席のために非常に、非常に激しく戦いましたが、残念ながら、5月4日のラトビア独立宣言の採決を阻止するためにあらゆることをする人々が大勢いました。
ML — ラトビア人は自分たちが自由になり独立すると信じていましたか?
VČ — ラトビア人は自分たちが自由になり独立すると信じていました。それが彼らの目標であり、そうなることを望んでいたからです。さらに、ラトビアを含むソ連の経済状況は急速に悪化していました。世界の原油価格が暴落し、ソ連への通貨流入が大幅に減少しました。このギャップを埋めるものはあまりなく、経済は本当に低い水準にありました。例えば、ラトビア共和国のすべての市民、そして原則としてソ連のすべての市民が写真付きのカードを持っていて、石鹸、シャンプー、砂糖、パンを買うときは店で提示しなければなりませんでした。想像できますか?当時も今も信じられないことです!
すべてのラトビア人は自由で独立することに賛成しており、それが私たちが選出された理由です。なぜなら、代議員になった人々はまさに、選挙前の公約や集会で、ラトビアが自由で独立すると国民、住民に約束したからです。さらにもう一つの出来事がありました。当時、ソ連のすべての市民が最高評議会に投票することができました。これは完全に異常です!しかし、それが当時の実情でした。例えば、ユールマラには海岸沿いにいくつかのサナトリウムがあり、そこでソ連軍の兵士、将校、官僚が療養していました。そして彼らも、例えば、私に投票する機会がありました。代議員候補者になり選挙に参加するためには500票の賛成票を集める必要があったため、彼らに会い、説得しなければなりませんでした。
ML — 5月4日のセッションが近づくにつれて、票が集計されている間の雰囲気はいかがでしたか?緊張感や興奮はありましたか?
VČ — はい、その一歩が踏み出され、次の一歩、つまり選挙そのものがやってきました。それにも徹底的な準備が必要でした。どこでも厳しい質問がされていたからです。私たちはどうやって生きていくのか、ラトビアを独立させるために私は具体的に何をするのか?など。緊張感は相当なものでした。ラトビア人民戦線は最も大規模な組織であり、ラトビア国民独立運動とも合併していましたが、選挙では票が足りませんでした。そして、5月4日の前夜、宣言採択の前日5月3日に、ラトビア人民戦線の指導者であるDainis Īvāns(ダイニス・イーヴァーンス)が私に電話をかけ、周囲の状況を注意深く見守るように頼みました。いわゆるソビエトの知識人や指導者が党委員会の職員として選出されていたため、彼らがラトビア共和国独立に賛成票を投じるかどうか確信が持てませんでした。もちろん、彼らと話し合いをし、努力を払い、彼らの忠誠を確保するために可能な限りのことは行いました。
ML — 票が集計されるにつれて、雰囲気はどのように変化しましたか?
VČ — 階下の最高評議会には、信じられないほどの数の人々が集まっていました。二階のホールから見下ろすと、下の階は私たちの演説の一言一句、呼吸さえも注視する大勢の人々で埋め尽くされ、私たちが彼らの存在を強く意識しているのと同じようでした。投票が始まり、票が集計されている間、これらの人々は皆、私たちの「Yes(賛成)!」という声と共に、成り行きを見守っていました。「Yes」という一言が意味していたのは、単に署名するだけでなく、ラトビア共和国の独立宣言へ賛成するということです。誰かが間違えたのではないか、誰かが反対しているのではないかという不安があり、そのためホールには非常に緊張した不安な雰囲気が漂っていました。本当に十分な票が集まるのかどうかという不安がありました。しかし、必要な票数である134票に達したとき、下では大きな叫び声と歓声が上がりました。何が起こっているのか皆がわかるようにすべての窓が開いていたため、最高評議会議長のAnatolijs Gorbunovs(アナトリーズ・ゴルブノフス)は下の人々に静かにするように何度も頼みました。集中して仕事をするのが不可能だったからです。しかし、さらに4票が加わると泣く人もいれば笑う人もいて、私たちは皆抱き合い、その気持ちは言葉では言い表せないほどでした。おそらく一生に一度の経験でしょう。幸福、喜び、勇気、そして自分の国、国民、同胞のために非常に重要なことをついにやり遂げたという実感がありました。
そして、私たちはすぐにDaugava (ダウガヴァ)川の岸辺へ駆けつけました。そこでは大規模な集会が開かれており、見渡す限りの人々が、私たちと同じように高揚した気持ちで集まっていました。私たちは皆で演説に耳を傾け、盛んに歌を歌いました。私たちの集会は常に歌が中心で、ラトビア人民戦線では、当時のために特別に作られた歌や、多くの愛国的なラトビア民謡が歌われていました。
ML — Saeima(国会)のウェブサイトには、亡命中のラトビア人が最新ニュースをどのように掴んでいたかが興味深く記述されています。例えば、カナダのトロントからスウェーデンのストックホルムに電話で連絡を取り、その電話を最高評議会のセッションを生放送するラジオ局に接続し、その音声が拡声器を通して送信されました。この情報協力はラトビアではどのようになされましたか?
VČ — はい、もちろん、移住したラトビア人はラトビアで起こっているすべてを追っていました。実際に何が起こっているのか、投票がどうなったのかに非常に興味を持っていたからです。電話を含むすべての通信はモスクワ(ロシア)を経由して行われ、すべて保安委員会の完全な監視下にあったため、直接通信することは非常に複雑でした。しかし、投票はすでに終わっていたため、彼らがいくらか戸惑っていたのは明らかです。おそらく、その後の対応をどうすべきか見当がつかなかったのでしょう。彼らは結局実現しないだろうと信じきっていました。その日中、インターフロントは私たちを阻止するためにあらゆることをしました。様々なばかげた言いがかり、様々な脅迫がありました。例えば、私はインターフロントの後ろの列に座っていました。そこである人が「今は生きているが、ここから出ることはできないだろう。投票はできるが、そうすればどうなるかわかるか」と、私に言いました。
私たちは何よりもとても幸せでした!次に何が起こるのかさえ理解していませんでした。最高評議会の選挙後には、2つの裁判所、検察庁、そして新しい治安部隊を創設する必要があることさえわかっていませんでした。ダウガフピルス市議会は、新しく選出された政府に背いたため解散させられました。州全体の行政を再構築する必要がありました。独自の警備組織はなく、警備員もいませんでした。私服を着た人々がいましたが、実際には武器を持っていませんでした。その時、私たちは自分たちが非常に大きく大胆な一歩を踏み出したこと、そして今や、ある程度、国、国民、同胞に対する責任が私たちの肩にかかっていることをようやく理解し始めました。
ML — 5月4日には、多くの公式行事に参加しなければならないと思います。しかし、ご自宅での白いテーブルクロスの祝祭は欠かさないのでしょうね。どのように祝うのですか?これらの祝祭は、あなた、ご家族、ご友人にとってどれほど重要ですか?
VČ — そうですね、わが家では、5月4日とその関連行事は何年もの間 – 今や34年にもなりますが – 特別な祝日となっております。私の娘Lauma(ラウマ)はそのような雰囲気の中で育ち、今ではラウマの家族、夫のJanis(ヤニス)、娘のMadara(マダラ)がいます。白いテーブルクロスをかけ、隣人や友人を招待します。これは私にとって最大の祝祭であり、ラトビア共和国が建国された11月18日よりも大きなものです。なぜならこれらの行事は私にとって身近なものであり、私自身が参加し、そして多少は私のおかげでこれらの祝祭が存在し、ラトビアが独立を回復したからです。
また、この34年間を振り返ると、私たちは本当に大きな進歩を遂げました。ラトビアでは、最初のラトビア共和国でさえ、これほど皆が豊かに暮らしたことはありませんでした。安全保障においても、私たちは大きな進歩を遂げました。NATOに加盟し、欧州連合にも参加しているからです。欧州連合からは継続的な支援を受け、理解され、受け入れられ、物質的な援助も得ています。もしそうでなければ、私たちは今頃、ウクライナのような状況に陥っていたでしょう。ラトビアが自由になり、この日を誇りをもって心から祝うために、私たちには十分な力、知恵、そして勇気が備わっていました。そして、これらの祝祭が年々盛り上がりを見せ、今やラトビア人だけでなく、ラトビアに住む民主的で誠実な、ラトビアを理解し受け入れる外国人も共に祝えるようになったことを喜ばしく思っています。
ML — ありがとうございました!
VČ — こちらこそ、ありがとうございました!
このインタビューは、2024年4月29日にMissionLatviaチームによって行われました。
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